1896年にスイス・バーゼルで創業したフリッツ・ホフマン・ラ・ロシュ社は、8年後の1904年に、日本進出を果たしました。最初は神戸の輸入商社を経由した製品販売でしたが、その後合名会社としてビジネスを展開、1932年には日本ロシュ株式会社を設立しました。そして1971年、日本ロシュ内に試薬部を創設し、日本における診断薬ビジネスをスタートさせました。当初は試薬の販売のみでしたが、1984年より検査機器を扱うようになり、生化学自動分析装置の発売によって大きく成長します。1988年には試薬部は試薬本部に昇格し、同じ年にモノクローナル抗体を用いた初めての検査薬を発売しました。
1990年代にはロシュがPCR技術の全事業権を取得したことにより、世界初のPCR検査用自動測定装置が開発、発売され、日本のC型肝炎の診断と治療に貢献しました。さらに献血のスクリーニングのためにPCR法を進化させた全自動システムを開発、当時エイズウイルスの脅威が問題になっていた輸血用血液の安全性を飛躍的に向上させました。また1998年、ロシュはドイツの大手検査薬メーカー、ベーリンガー・マンハイム社を買収。試薬事業を中心に120年の社歴を持つ名門との統合によって、ロシュは一躍、試薬・診断システムのトップに躍り出ました。またこれにより、試薬本部は日本ロシュから独立してベーリンガー・マンハイム社と統合し、ロシュ・ダイアグノスティックス株式会社が誕生しました。
ベーリンガー・マンハイム社との統合は、遺伝子研究分野への進出、診断薬・医薬品の工業用原料(インダストリアルバルク)の製造・販売など新たな事業展開をもたらしました。
2000年代に入って、ロシュは病気の早期発見・予防から診断・治療に至るまで、ヘルスケアのあらゆる領域に製品を提供することを目指していきます。その中でロシュ・ダイアグノスティックスは、日本の検査室の効率化、さらには検査室全体の最適なソリューションを提案するビジネスを展開していきます。診断薬ではロシュのベンタナ社買収により、がんの確定診断に用いられる病理学検査の分野に進出。2020年には日本のがんゲノム医療を支援するデジタルソリューションを発売し、治療に直結する新たなステージを迎えています。
日本ロシュ(当時)が試薬事業をスタートさせたのは1971年、ロシュがスイス・バーゼルで同事業部門を立ち上げた3年後のことでした。主力製品になるはずだった腫瘍マーカーキットの発売が遅れたため、生化学と細菌検査キットの販売からスタートしました。営業担当は全員が理系出身で多くは研究者タイプ。自分で実験をし、データを取り、病院にデモンストレーションに行っていました。当時、試薬領域でのロシュの知名度は殆どなく、発音から「ろ紙」を作る会社と間違われるほどでした。代理店に行くにも、勉強会や医局説明会を開くにも、医薬品営業に協力してもらう状況でしたが、若く気概あふれる組織には大きな問題ではありませんでした。1981年、待望の腫瘍マーカーキット「CEAキット」が発売され、主力製品となりました。
検査機器を自社で扱うようになったのは1984年のことです。ロシュは、それまで日本では別会社を通じて生化学検査・免疫血清学的検査の自動分析装置を発売していましたが、血液凝固測定器を皮切りに自社販売を開始しました。そして翌年の1985年、日本ロシュ 試薬部の土台構築に大きく貢献する製品、生化学自動分析装置「コバスミラ」が発売されました。
「コバスミラ」は、それまでの機器に比べてはるかに迅速かつ正確な分析装置でした。必要項目だけを測定することができたため、トータルコストを抑えられるという利点がありました。また世界に先駆けて上市されたラテックス試薬も市場に受け入れられ、いずれの製品も試薬部の成長に著しく貢献しました。
臨床検査薬情報担当者(DMR)が試薬と機器を一緒に売り込むというのは、当時としては画期的なことでした。日本市場は海外市場と違い、試薬と機器が異なるメーカーで開発されてきた経緯があったからです。しかしDMRの中にも機械の苦手な者がいたため、ロシュは機器の宣伝を専門に行うシステムプロモーターを各支店に配置しDMRをサポートする体制を作りました。これを機に、試薬部は医薬品本部から独立し1988年、試薬本部となりました。当時の試薬本部の人数は120人、国内の売上は21位でした。
試薬本部が誕生した1988年、モノクローナル抗体を用いた初めての検査薬、「AFP「ロシュ」EIA-DM」(がんマーカー)が発売されました。モノクローナル抗体とは、抗原にあるたくさんの目印(抗原決定基)の中から1種類(モノ)の目印とだけ結合する抗体を、人工的にクローン(クローナル)増殖させたものです。モノクローナル抗体の作成技術は、ロシュが出資したバーゼルの免疫学研究所で1975年に発明され、開発に関わった研究者ジョルジュ・ケーラー氏、セーサル・ミルスタイン氏は1984年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました。
このモノクローナル抗体は、今では免疫血清学的検査薬として一般的なイムノアッセイ法で使用されるほか、治療薬として関節リウマチなどの免疫疾患、がんなど広く使われています。さらには新型コロナウイルスの予防や治療薬にも使われ、注目を浴びています。
DNA断片を生体外で大量複製するバイオテクノロジーの新技術PCR。
アメリカの科学者キャリー・B・マリス氏がその遺伝子増幅技術を考案したのは、1983年のことでした。マリス氏は当時所属していたシータス社の同僚と共同で、この技術「PCR (Polymerase Chain Reaction=ポリメラーゼ連鎖反応)法」を完成させました。完成後、しばらくはPCR法の評価は低かったと言われています。しかし当時のロシュの試薬事業部長は「これを利用すれば、一つのDNA断片からウイルスに感染した細胞を検出することが可能だ」と考え、この診断薬の特許において独占的利用権を取得しました。そして間もなく、次期試薬事業部長はPCRをすべての分野に利用できる全事業権を買い取ることを主張しました。未知の技術に対する大きな投資となるため、反対の声は大きいものでした。しかし1991年、ロシュはPCRの全事業権を取得します。その2年後、マリス氏はノーベル化学賞を受賞しました。
ロシュがPCR技術の全事業権を取得した当時、日本ではC型肝炎(HCV)患者が急増し問題となっていました。当時、新しくインターフェロンの治療が始まっていましたが、インターフェロンはC型肝炎のウイルス量とGenotypeの種類によって効果が劇的に違ったため、PCRによるウイルス量測定が必要でした。HCV用の免疫検査は、C型肝炎を過去に感染したのか、現在感染しているのかも確認できなかったのです。そこでロシュの日本チームはPCR検査の導入が急務と考え、開発担当のアメリカに要求しました。紆余曲折ののち、1996年に世界初のPCR検査用自動測定装置「コバスアンプリコア」が発売、その後、HCV検査も発売されました。これらの製品は、C型肝炎の診断と治療に大きく貢献しました。
遺伝子検査が臨床の場でできるPCR検査には、早くから医師の高い関心が寄せられ、「説明に来てほしい」と言われるほどでした。ロシュと言えばPCR、PCRと言えばロシュ、というイメージはこのとき生まれました。PCRはロシュの成長に大きく貢献したのです。
今、PCR検査は医療と研究の両分野で幅広く導入され、新型コロナウイルスの診断にも役立っています。
1990年代の日本には、C型肝炎患者の急増のほかに、「安全な輸血を提供する」という喫緊の課題もありました。献血血液のスクリーニング検査において、エイズウイルス(HIV)をより早期に発見するシステムが求められていたのです。この国家的な課題に対して、PCRで実績のあったロシュに声がかかりました。示された課題は①一本の試験管でHBV、HCV、HIVの3項目を同時に検出、②年間500万検体をさばける信頼性の高い完全自動化の達成、③検体投入から結果が出るまで3時間以内、の3つを満たすことでした。当時は用手法による検査が主流で、PCR検査は8時間以上かかるのが当たり前でした。非常に難しい条件だったのです。
この難題をクリアするため、日本ロシュでは1997年に特別チームを始動させ、国内のベンチャー企業と共同で自動分析装置の開発を進めました。用手法が主流だったPCRの技術を用いて多くの検体を自動処理するには、技術的にクリアしなければならない課題が立ちはだかっていました。また、グローバルとの交渉という問題もありました。日本で日本の顧客のためだけに開発されるローカルディベロプメントであったため、世界標準品を提供するというグローバルの方針と異なっていたのです。
国際規格品を待つ余裕のない日本チームは開発を進め、最終的にはロシュ・アメリカの開発陣による全面協力も得られ、ついに増幅と検出を同時に行う全自動のPCR分析装置を完成させました。1999年7月に実用化が開始され、2001年には献血血液のスクリーニング検査にロシュのPCR法による全自動システムが使用されることが決定しました。(現在は終了しています)
1998年、ロシュはドイツの大手検査薬メーカー、ベーリンガー・マンハイム社の買収を果たし、診断薬市場での世界的なリーダーになりました。試薬事業を中心に120年の社歴を誇る名門との統合によって、ロシュは一躍、試薬・診断システムのトップに躍り出たのです。この巨大な企業同士の合併は日本にも影響を及ぼしました。試薬本部はベーリンガー・マンハイム社と統合して、日本ロシュから独立することとなり、1998年8月にロシュ・ダイアグノスティックス株式会社が誕生しました。当時の社員数は450名でした。